猫が繁殖期を迎え、夜な夜な鳴き声に悩まされている。
数年前から地域の中で猫が多くなり、その数が急速に増えて、ご近所の人が寄ると触ると
「お宅、猫の被害どう?」、「え!やられたの?」と愚痴をこぼすことが多くなった。
猫は年二回繁殖期を迎え、爆発的にその数が増えると聞いていたけれども正にその通りで、
どこの路地からでも数匹の猫が軍団を組んで走り抜けてくる。

倉庫に入られて糞尿の被害に遭った。
朝起きると、ゴミ収集場所が眼も当てられない程の惨状になっていたとか話が尽きない。

副住職の住んでいる部屋では、知らない間に屋根裏に猫が入って子供を産み、挙げ句に蚤が大発生した。
朝、顔を合わすと「おはようございます」よりも先に「今日も噛まれたんですよ」と悲愴な顔をして真っ赤になった脛を見せる。
私は初めて蚤の噛んだ跡を実際に見たが、猛烈に痒くて我慢ならないという患部は無残なものだった。
「屋根裏で騒ぐので、ドンドンと下から突いた時に落ちたんですかねえ」
部屋に入るとピョンピョンと飛び付いてくるのだと痒い脛を見ながら、ぼやいている彼は可哀想でもあるが、つい食卓で隣に座る私は自分の周りにも蚤がいるのではないかと思わず確認してしまった。

動物写真家の岩合光昭氏の映像で犬が話題となり、その内、「被写体として猫は最高の動物」という氏の言葉で、次々と猫の写真展が開かれ、それが話題になるにつれテレビ番組にもなり、空前の猫ブームとなった。
猫好きで飼いたいけれど、マンションなので飼えないという人もいて、猫カフェというものまで出来た。
猫が好きな人にとって最高に心地よい居場所なのだろう。

人の好みは様々で、良しという人もあれば、否という人もいる。
当たり前のことだが、どんなことでも表と裏があり、見る人によって評価が変わる。
これが一番と思ったことも、結局は「自分にとって」という言葉が必ず頭についての解釈になる。
猫を見て可愛い、救われるという人もいれば、近くに寄っただけでアレルギー反応を起こし、見るのも嫌という人もいる。

ひとつの物事が存在するとき、その存在が落とす影が必ずある。
その影の存在を知ろうとすること、感じられるかということが、その人の優しさに繋がっていくのではないだろうか。
自分の「良し」と他人の「良し」の間で、お互いが思いを量り合い、譲ったり、譲られたりしながら物事を重ねていくことが生きていくことを豊かにしていくように思う。