器を慈しむように持つ
「慈しむ」という言葉のなんと優しく、柔らかな響きだろうか。
音の余韻を愉しむ。
音だけでなく、動作の流れに余韻というものもある。
辞去を告げ、ドアの向こうに去った人の余韻に浸る。
会話を愉しんだひとときの余韻がこころの中でこだまする。
品物を渡されたときの掌の感覚。
軽くポンと渡されたときの印象と、掌の上に静かに置かれたときの微妙な感覚の違いは受け取る人のこころに伝わる。
こころを込めるという言葉があるように、掌の上に品物だけでなくこころを添えて差し出されたような温かな余韻に包まれる。
見えている物と、見えていないものは常にいっしょに動き、日常生活の中で何気なく行っている単純な行為の中には、実は知らぬ間に自分のこころも同時に運ばれている。
快不快、喜怒哀楽の感情の揺れは、隠しているつもりでも隠しきれずに、ちょっとした動作の中に溢れ出る。
その「ちょっとしたこと」が積み重なって、お互いの気持ちにずれが生じたり、ことばではなく動作で安心感や行為が伝わって、より深い関係性を築くことにもなっていく。
日常生活というのは、その繰り返しの連続だ。
単純と思える行為が自分の人生を作り、相手への架け橋となり、周囲に波及し、広く伝わっていく地盤となる。
動作は行為ではなく、こころや気持ちを渡すこと。
むしろ品物や行為という形に惑わされ、上っ面を大事に思っているけれども、その下の隠れている見えないものを相手に渡しているのだ。
行為という動作を通して隠しようもない丸裸の自分を相手に晒している。
こんにちは。
さようなら。
又、いつかお目にかかりましょう。
ありがとうございました。
短い言葉や、何気ない行為の中に隠れている自分自身。
それを知らないで、平気で過ごしているのは、この私なのだ。