「 旅立ちの名前 」

お葬儀を執り行うとき、いつも亡くなった方のことを思いながら、現世から、来世に向けて力強く、後押しをするように送り出させて頂いています。
この世で様々なことを経験され、人生を重ねて来た方が亡くなられて、それで最後かというとそうではありません。
実はここからが本当のスタートなのです。
葬儀の際、儀式の始まりを何気なくご覧になっているかもしれませんが、お葬儀は「佛教徒としての再スタート」の儀式です。
導師がお経を唱え、剃刀を出して亡くなった方に向け行っているのは「剃髪(ていはつ)」です。
「死」を迎えることにより、この世と決別し佛弟子となって髪を落とす剃髪を行うのです。
そして、お釈迦さまの弟子となった証(あかし)として「血脈(けちみゃく)」を授け、正式にお釈迦さまの弟子の一人になったことで、僧侶としての名前を授けます。
これが「戒名」です。

時に「戒名なんか自分で付けるから」という方がおられますが、本来、戒名は佛弟子になって初めて頂ける名前ですので勝手に自分で付けるというのは間違っているのです。
尚且つ、名前を授けた僧侶は、「血脈」を授けています。
これは導師から、新しく弟子となった人に導師が仲立ちしてお釈迦さまからの「戒」を授けるということです。
脈々とお釈迦さまからの佛縁を受け継ぎ、今ここから、その方の佛教徒としてのスタートが切られたわけです。
お気づきの方もあるかと思いますが、実は「戒名」は、本来、亡くなってから頂くものではありません。
生きているときに佛教徒として目覚め、お釈迦さまのみ教えに導かれていこうと決心されることが理想の姿なのです。
現在、「戒名」というと亡くなってからという観念が定着してしまったことは、とても残念なことです。
それでは「戒名」とは一体どんなものなのでしょうか。
これは、師匠が弟子に対してかける願いです。
佛教徒として今から歩んでいく人生において、親が子供に「こんな人生を歩んでほしい」「こうあってほしい」と願いを込めて付ける名前と同じです。
人は亡くなって終わりではありません。
生きているときと同じように、亡くなった先も、佛教徒として切磋琢磨し、自分の性根玉を磨いていかなければならないのです。
この世に居る者は、そんな亡き人に対しエールを送り続けていく「供養」をしながら、共に育っていくことこそ大事なことなのです。

 

合掌
神応院住職 西村 英昭