かれこれ十年余り前からかと思いますが都会を皮切りに「家族葬」という葬儀の形が始まり、次第に地方でも広がり始めました。
大勢の人に故人の死を知らせることなく、家族や近くに住む身内の者だけで静かに見送りましょうと言う趣旨だということで、成程なと思いました。子供の頃から、お葬儀というのは遠方からも、今まで会ったこともない人も大勢集まってするものと思っていました。近所の人にも三度の食事の準備をして頂くなど手助け頂くことが当たり前でした。葬儀というものは大勢の人で見送るのが普通の光景だったように思います。

ただ大人になって少し違和感を覚えたのは、通夜、葬儀に集まった人たちの中には仕方なく、付き合いや義理でという人たちも結構いるのだと感じたことでした。
その人たちは、故人を偲ぶとか、別れを惜しむという気持ちが薄く、平気で列席した者同士で私語を交わしているだけという光景に出会うことも多く、不愉快な思いをすることもしばしばでした。そういった点からすれば少人数で、本当に心から別れを惜しみ、故人を偲ぶ家族葬という形は良いことではないかと思えるのです。

でも、本当にそれで良いのでしょうか。家族葬が多くなってきたときに言われたことがあります。知人が亡くなり、家族葬で見送られたことを後で知り、自分も葬儀に参列して最後を見送りたかったと思ったー
いつの間に周囲の人がこの世を去っていたということ。ご縁のあった人でさえもいつの間にか亡くなって、喪中葉書で初めて知らされた等、お世話になったのにお別れも出来ないことに淋しさを感じておられる方が多いような気がしています。この点を冷静にじっくりと考えてみないといけないのではないでしょうか。

私たちが唯一絶対の命を頂いて長い人生を歩んで来るには多くの他者の支えがなければなりません。それ無しに生きていける人はひとりもいないのです。そんなことはない、自分は誰にも迷惑を掛けていないという人がいるかもしれませんが、それでも、気が付かない内にいろいろな支えを頂いているのです。それを思えば、人が人生を終えるとき、感謝の気持ちを伝えてからいくべきだろうと思います。でも死んでしまったら、それも出来ないわけで、その為に家族、遺族が故人に代わって「お世話になりました。」と周囲の人に感謝の思いを伝えるのです。葬儀を通じて縁を確認し、互いに感謝の思いを伝え合う。人生の最後に、お互いが心の交換をするからこそ、共に別れが出来るのだと思うのです。そして家族にとっては、いろいろな方を通して故人の生き様を感じたり、自分たちには見えていなかった姿を知り、再認識することが出来る大事な切っ掛けになるかと思います。簡単に経済的な面ばかりが強調される昨今ですが、亡き人を見送るということを今、真剣に考えてみる必要があるかと思います。

合掌
神応院住職 西村 英昭