私は、どんな生き様を見せていけるか

或る日、月参り(月忌)にお伺いしたお宅でのこと。
「方丈さん、最近つくづく思うのですがね、私たちのように高齢になった者は健康診断なんて、そんなにしなくてもいいんじゃないかと思うんですよ。歳を取れば、身体はあちこち古くなって傷んでくるのは当たり前。食べても吸収力は落ちて、それに従って段々と身体が弱って最後は老衰で死んで行くのが自然だと思うんですよね・・・」
私の頷くのを見ながら、更に話は続きました。

「若い人は違いますよ。若い人は、検査で病気を発見し、治療して身体を治し、しっかり働いてもらわねばなりませんからね。私たちのような高齢者は、術後、元のように体力が回復して、バリバリ仕事が出来るわけでもないですからね。私は、そう思うんです。」
私は、お話を伺いながら一理あると思いながらも、どう受け答えすべきか、一瞬迷いました。
確かに、その方の言われることも、もっともだと思いました。でも、人は自分の終わりが見えた時、生きたいという欲求が強く起きるのではないかと思います。もう少し、もう少しと未練が多く、未だ死にたくないと周りを困らせるかもしれません。要は、自分の与えられた人生を真剣に生きることが出来た人、生き切った人は素直に次の段階に行く覚悟が出来るのだと思います。そう考えると、檀家様のように思えることは凄いことだと思いました。ただ、今、健康で日々の暮らしの中で多少のことはあっても過ごしていくことが出来る。そういう状態で考えたことを、健康を損ね不自由な日々が続くようになったときに同じように思えるか。今とは自分の中で湧き上がってくる思いが少し違ってくるかもしれません。人は一人で生きているのではありません。周囲の人の思いの中で生かされているということも忘れてはいけないのではないでしょうか。自分は納得していても、健康状態が悪くなれば家族の方々は検査や治療を望まれるでしょう。どんなに完璧に看護されたとしても見送った後、あれで良かったのかと悩まれるご家族も多いと聞きますが、生きてほしいという周囲の思いを汲み、感謝しながら生きていくことが大事なのだと思います。生きとし生けるものは全て、いつかは滅していくものです。

そして、人生の終わり方に願いを持って生きていくということは素敵なことではありますが、100%自分の描く理想通りに最後が迎えられるわけでもなく、反対に自分の思うようにならないことを生きていかなければならないのが人生というものかもしれません。
厳しく辛いことではありますが、どんな状況になっても、それを受け入れていく覚悟、佛教の教えで言うならば「佛さまにお任せ」の生き方をしていかなければならないのだと思います。

家族や周囲の思い、自分の思いを抱きつつ、懸命に真摯に頂いた命に向き合い、感謝をしながら日々を重ねていく。
その毎日の一歩こそが、大事なことなのだと思います。

合掌
神応院住職 西村 英昭