「 先代の願いを受けての新寺建立の経緯 」
私がまだ四十代のころだったと思います。
先代方丈との雑談の中で、広島と三原、呉と三次、それぞれの町に囲まれた中間辺りには全く宗門の寺院がないことが話題になりました。広島市内には安芸門徒の盛んな地域であるにも拘わらず曹洞宗寺院も結構ある。同じ広島の中で曹洞宗の空白地帯があるというのはとても残念だというのが先代の主張でした。
そういう所に曹洞宗の寺院が出来ればいいなと夢を描いているというのです。
生活はどうするのかという私の問い掛けに、先代はひょうひょうと「基本的には自給自足だな」と事もなげに言うのには正直驚いてしまいました。
それでも、その発想は、とても面白いとも思ったのです。
その後、西条の寺院に話を伺いに行き、具体的な動きを始めていくのを傍らで見ながら先代が本気であることを感じていきました。
やっぱりお寺をなんとかしたい、先代の強い意志を汲んで西条三永の水源地側の土地を手に入れました。
先代はすぐにでも寺の建築に取り掛かりたかったのだと思いますが、丁度バブルが弾け世の中の経済が暗転していく時代に入った為、時が熟すのをしばらく待たねばならない状況となりました。
いつの間にか建立に向けて熱心に活動していた先代の動きも静かになり、八年ほど経った平成十二年、先代は体調を崩し、翌年九月三十日に遷化しました。
夢は夢のままで終わるのだろうかと思いながらも、先代が最後に言い残した言葉が私の頭から離れず、折あるごとに話し掛けてくるのです。
「自分は、もう長くはないが思い残したことはない。ただ唯一、西条に別院を建立出来なかったことが悔やまれる。小さな寺でもいい、頼む」
亡くなる一週間前のことでした。
「小さな寺でもいい」という言葉に、私は悩みました。
どんな小規模な寺であろうとも、一つの寺院を建立するには莫大な資金が必要です。
とても無理だと半ば諦め掛けていたとき、先代の実の妹である叔母が先祖の墓守りとともに実兄である先代の夢を叶えて欲しいと神應院に遺産を寄付してくれました。
二人の思いを継いで、西条別院の建立は実現しなければならない。
私は腹を括りました。
平成二十八年六月、西条・神應院別院の建築が始まりました。
設計は、宮森設計事務所、建築は橋本建設株式会社に依頼。
木が生い茂り森のようになっていた土地も整備され、平成二十八年十月、地鎮祭を執り行い、続く二十九年三月十一日に上棟式を挙行し、次第にお寺の全体像が見えてきました。
「兎に角、寺を建立すること。お釈迦さまの教えである佛法を広めていく場があることを示すということが第一歩だ」
そう話していた先代の思いが今正に、現前に拡がっていくのを感じていました。
平成二十九年十月、別院の建物は完成しました。
しかし、お寺としての働きを起こして行くには、まだまだ調えていかなければならないことが山積みでした。
先ず、別院の核になる本尊様をお迎えすること。
本尊様の制作は、旧知のご縁である京都美濃角法衣店の田上氏を通して、佛師 宮本我休師にお願いしました。
同時に、本尊様を安置する須弥壇も用意しなければなりません。
塗りの色加減、金具の具合、細かな所をチェックしながら繰り返し、繰り返し、色合いを調整していきました。
また、本堂内の様々な佛具も揃えていきました。
鏧子(けいす)、木魚、座具など仏具の準備もひとつひとつ仕上がってきました。
そしてやっと二年前、本尊様 釈迦牟尼佛様が完成し、佛具も調い、檀信徒の皆さまにお披露目できるまでになりました。
ところが、その矢先の新型コロナの大流行。世の中は、コロナ感染に怯え、総ての活動がストップしてしまうような空気に覆われてしまったのです。
多くの方にご参列して頂き、新しいお寺の始まりを見守って頂きたいという願いも空しく再び、時を待たねばならない状況に追い込まれました。
今年に入り、どうにか世間が動き始めたのを見て、十月二日(日)に新寺の落慶法要(らっけいほうよう)及び、御本尊様の開眼法要を執り行うことを総代様、役員の方々とご相談して決定致しました。
ここからが、神應院別院の第一歩が始まります。
寺院として、佛教の布教の場として、多くの人々の心の拠り所としての灯火を掲げられる場になってほしいという願いを込めて、十月の法要儀式を行います。
その始まりの第一歩を多くの方々に見守って頂きながら佛縁を深めて頂きたいと切に願っております。
合掌
神応院住職 西村 英昭