歳が明け、冬を通り抜けて春の芽吹きの時期を迎えても未だ、世界中がコロナウィルスの脅威から解放されることがありません。
毎日、ニュースを見ては各地の感染状況を確認し、その動向を窺うということが続いています。
今迄、普通に行って来たことがウィルスの流行によって突然断たれた驚きは本当に恐怖を伴うようなものでした。
それと同時に何気ない日々の暮らしの中で、平凡に続けてきたことが、如何に人との繋がり、安心感を育んでいたかということを思い知らされたような気がしています。
ご近所の方々と世間話をすること。
友人と他愛無いおしゃべりを楽しみながら食事をすること。
期待していた美術館の催しを待ちわびて出掛けること。
コンサートに行って音楽を愉しむ時間に浸ること。
そんな普通の生活が、ある時から突然出来なくなってしまいました。
何より、今まで道を歩いているときに、困っている方があれば手を出して介助するということを一瞬ためらうようになっている自分に情けなさを感じます。
子供たちに対しても抱っこをしたり、ぎゅっと抱きしめるということを自然にしていたのに、一瞬、「そんなことをしたら親御さんはどう思うのだろうか、迷惑だと思われるのではないだろうか」とつい考えてしまって出す手がぎこちなくなってしまうのです。
何もかもがギクシャクとなり世の中から「味わい」が消えてしまいそうな不安を感じます。

ところで、神應院には幼稚園がありますが、まだ言葉が話せない小さな子供がマスク着用になって以来、ことばの習得が遅れているような気がするということを
職員が話していました。小さな子供は常に相手の口元を見て観察し、ことばを習得していくのではないかという話にとても興味を覚えました。
子供や大人の別なく人は皆、人と接する中で生かされ、生きているのだということをしみじみと感じます。それは、ことばでなくとも味わうことが出来ます。何も言わず、そっと肩に置く手。話を聞きながら静かに相槌を打つこと。目で合図を送ること。たったそれだけで思いを伝え、受け取る側は相手の温かな思いを感じることもあります。
「触れ合い」ということばの示す通り、人は他人との繋がりの中で、話をし、触れ合いながら気持ちを交感し、間隔を計りながら人間関係を構築していくのでしょう。逆に言えば、そうしたコミュニケーションが取れない今、何をするのか、どうすればいいのか新たな方法を考えていく良い機会と捉えていけば、毎日の暮らしの中に楽しさをみつけることが出来るかもしれません。

先日、幼稚園も無事に発表会を終えることが出来ました。たくさんの制約がある中で、子供たちは生き生きと自分の力を発揮し、成長した姿を披露してくれました。
印象的な歌がありました。
それは『てをつなごう』という題名の、とてもすてきな歌でした。

“世界のみんなが
もし てをつないだなら
すぐに大好きになって
嬉しくなっちゃうね
てをつなぐって
まるで 魔法みたいだね
知らない誰かさんだった君と
僕はもう友達だ
てをつなごう!てをつなごう!
てをつないだ時のほうが
力がわいてくるよ
優しい気持ちになるよ
てをつなごう!てをつなごう!
嘘じゃないさ 確かめてみよう
さぁ 一緒にてをつなごう! “

どんな時にあっても、人が人と繋がっていくことは大事なことです。
繋がって行く中で、人は人の温かさを知り、勇気をもらい、信頼ということを知り、安心という世界の中で成長していくことが出来るのです。
母と子、父と子、家族、祖父母、友人。多くの人の育みの中で私たちは生かされているのだと改めて歌を聞きながら考えていました。
子供たちのまだ幼さの残る歌声に包まれながら、今、コロナ渦中で見失ってしまいそうな一番大事なものをそっと心の中に届けられたような、そんな気がした出来事でした。

合掌
神応院住職 西村 英昭