「 新年あけましておめでとうございます」

昨年も、コロナ流行で何となくすっきりしない鬱陶しい日々が続きました。
いつまでこの不安は続くのだろうかと皆様思っておられることと思います。
「明けない夜はない」と言いながら、なかなか先の見通しが立たない日々に苛立ちを感じます。
さて、次の台詞を皆様は憶えておられますか?
「ここ掘れ、わんわん」
昔ばなし『花咲かじいさん』に出てくる犬の台詞です。子供の頃に聞いて耳に残っている方も多いと思いますが、実はコロナ流行以来、私のこころの中で繰り返し湧き上がって来る言葉でもありました。
見通しのつかない毎日を送るというのは、初めの内は「その内どうにかなるだろう」と思い、心配しながらも、一種、対岸の火事のような思いで眺めていたわけです。
それが、感染が拡がるにつけ、いや待てよと慌てて身を起こして、これは大変なことになったと思い始めました。様々な情報が錯綜し、一体どれが本当の事なのか、真実を見極めることの困難さ、もしかしたら自分も感染するかもしれないという不安感。大いに感情が乱され、気持ちが落ち込むことも多くなりました。
「ここ掘れ、わんわん」
妙な事にこの台詞を思い出したのです。
混乱の中で不安に包まれていると、つい先のことしか考えません。
しかも良いことは思い描かないものです。
この先どうなるのだろう。
もしかしたら私も感染するかもしれない。
感染したら、周りに迷惑を掛ける。
なにより死んでしまうかもしれない。
次第に膨らんでいく不安は妄想となって、日々の生活リズムまで狂ってくるという悪循環です。そんな時、
「ここ掘れ、わんわん」
が聞こえてきました。
佛教には脚下照顧という教えがあります。
どうなるか分からない先のことなど考えず、今ここを真剣に見つめよということなのですが、つい私たちは不安に取り込まれると暗闇の先に何があるのだろうと目線を先にばかり向けてしまい、今、自分のあるべき様にこころが向かなくなってしまいます。これでは本末転倒。
先のことは佛さまにお任せし、今の自分を整えていく。日々の暮らしを真面目に、丁寧に務め上げていく。
一見、単純と思える繰り返しの日々を丁寧に過ごすことで、こころが落ち着き、今まで見過ごしていたことを新たに発見する良い機会になるかもしれません。
どうなっていくか分からない先の事ばかり考え、不安になって落ち込んでいると今の自分の足元まですくわれてしまうことになります。それよりは、今日を大事に暮らし、その中で新たな喜びを発見していくこと。正に「ここ掘れ、わんわん」なのです。お宝は、どこかにあるわけではなく、今、今の自分の足元に眠っているのです。
お釈迦さまは、ご自身のことを「種を撒く人」だと話しておられます。
私たちも、コロナのこの時期に自分のこころに向かい合い、耕して、新しい種を撒く。そうすれば、やがて育った芽には「縁」という陽が射してこれからの楽しみになっていくことでしょう。
コロナで生活が一変しました。
しかし、この経験の中で、私たちは日々を営むことの大事さを教えて頂いたように思えます。
人生は、今、今、今の数珠つなぎ
作者不明の古歌が身に沁みます。
この一年が皆様にとって有意義なものになるよう祈念しております。

 

合掌
神応院住職 西村 英昭