二月十五日は、お釈迦様がお生まれになられた「涅槃会(ねはんえ)」と言います。
この時期には毎年お寺の本堂の中に涅槃図というお釈迦様が亡くなられた時の様子を描いた掛け軸をお祀りして、お釈迦様を偲び、ご供養をして、お釈迦様の教えを自分たちの心の中にしっかり刻み込ませながら感謝をするという行事を行います。
神應院では十五日に近い土曜日か、日曜日に計画し「涅槃会法要とざぶとんコンサート」という行事をしております。

二月十五日に亡くなられたお釈迦様が、最後に遺された教えが「遺教経」として残されています。
その中に「少欲」と「「知足」という人間が苦しみから抜ける根本的な在り方を示しておられます。」

「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩も亦た多し。
少欲の人は無求無欲なれば即ち此の忠(うれい)無しー中略― 少欲を行ずる者は、心則ち坦然として憂畏する所無し・・・」更に「若し諸の苦悩を脱せんと欲せば当に知足を観ずべし。知足の法は即ち是れ富樂安穏の処なり・・・。略・・・不知足の者は富めりと雖も、而も貧しし。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は常に五欲の為めに牽かれて、知足の者の為に憐愍せらる」

この部分を静かにゆっくり読んでみて下さい。
今の私たちが反省しなければならない根本的な所を指摘されているように思いませんか。

あれが欲しい、これが欲しい、もっと、もっと、自分が、自分がということが余りにも大き過ぎ、強過ぎるのではないでしょうか。
自然が破壊され、異常気象に悩まされ、大変だと言いながら、他人の責任、他国の責任、政治が悪い、国が悪いと心を静かに整えて考えてみれば、すべて人間の欲望を充たす為に動いているだけなのではないでしょうか。

確かに欲は大切なものです。それがなければ進歩も、向上も、喜びもないのですから。
だからこそ、お釈迦様は、その欲を正しい方向にコントロールしていかねばならないのだと説かれました。

己の欲は放っておくととんでもない暴走をしてしまう。
その操縦を誤ってはならない。その為に少欲,知足を心掛けて歩んでいかねばならないということです。
常に自分の心の中に少欲、知足の思いを置き、生活に生かしていく実践をしていくことを忘れないようする。

それには、己に見える所、見えない所、知らない過去から、知り得る過去に至るまで、己を支えて頂いた総てに感謝する心を育てていくことではないでしょうか。

自分を支えているものは、自分という存在の根底にあるように思います。

             合掌

神應院住職 西村 英昭