「場を作る」

お寺では、さまざまな活動があります。
佛教講話会、坐禅会、婦人会である菩提樹の会、日曜学校、そば打ち会。
いろんな年代、性別の方が集まって、それぞれの活動を通して交流をされています。
その様子を拝見しながらお寺は、「場」を提供するところ、人の集う所なのだと、つくづくと感じます。
しかしコロナになって、その活動も思うに任せません。
感染が拡がると、やむなく活動を休止せざるを得ない場合も多く、この三年間は、とても辛く苦しい期間でした。
生きづらいときほど、お寺は活動すべきなのに、それが出来ない期間というのは本当にもどかしく、焦りを感じる日々でもありました。
まだ、この不安な闇が明けるという希望がはっきりとは見えないまでも、今は、どうにか少しでも活動を続けていくことが出来ればと願っています。

しかし、お寺が人々にとっての「場」であるなら、そこに人が集まらないことには何事も始まりません。
人体でいうならば、お寺は器としての身体であり、そこに集ってこられる人々は
血液や栄養といったところだと思うのです。
人々が集まり、活動し、お寺の中が活発に動く。
この流れがお寺という「場」を育てていくのだろうと、このコロナを体験してつくづくと思います。
佛教講話会に出席して生きていくヒントをもらったり、自分のこころの折り合いを着けたり、坐禅会に参加してこころを調え、日々の暮らしに句読点を打つ。
婦人会活動を通して交流の輪を拡げ、お寺を訪ねて、お茶を飲みながら他愛ないおしゃべりをしたり、上手い下手関係なく、同じ趣味を愉しみ、人の輪を拡げて仲間とそば打ちをしてみたり。
そんな何でもないことが、実はとても私たちの心に安らぎを与えてきていたことをコロナになって痛感しました。
只、一旦減速してしまった活動を元に戻す、より活発にしていくというのは難しいことだと思いますが、それでも少しずつでいい、皆さまの中に「お寺に行ってみようか」という気持ちが芽生えて下さることを願っています。

先日、日曜学校の卒業生たちが同窓会と称してお寺に集まりました。
幼稚園から付き合い始め、今は高校3年生となり、受験を前に集まりたいということでした。
本尊様に般若心経をお称えし、ご挨拶した後、パーテーションを設置して食事をしました。
お経が、今でも空で言える、食事の前に称える「五観の偈」も不思議と口から出
てくると嬉しそうに言います。
学校のこと、将来への夢について、今風に言う推しのアイドルのこと等、話は尽きません。そんな大人になりつつある子供たちを見ながら、こうしたご縁を頂けていることに幸せに感じました。
「なんだかホッとする」と彼女たちは、よく言ってくれます。
家庭でも、学校でもなく、友人との繋がりとも違う。
孤独ではないけれど、日常の世界から少し間を置いた異空間に身を置くことで、自分でも気が付かない心のざわつきを調えているように思えました。
今、コロナ禍で人々の心が閉塞的になっている時にこそ、お寺は、安らぎを提供できる空間でありたいと願っています
これからも、神應院の企画と場を提供して参ります。
先ず、参加して下さい。勇気を持って、その一歩を踏み出して下さい。
年齢は問いません。
お寺に人が集い、交流し、プラスの流れが出来ていく。
コロナ禍が明けた後のお寺の在り方を考えながら、皆さまと共にそんなお寺を作り上げていきたいと考えています。

 

合掌
神応院住職 西村 英昭