今年のお盆は大変な猛暑の中での行事となりました。
これがもし、ひと昔前の状況だったら、もっと大変だっただろうなと感じながら盆経を務めさせて頂きました。
今は移動は車やバイク、各家もほとんどクーラーが設置されているので時々涼を取ることも出来る。
本当に有り難いことだと強く思いました。
そうした中で、今回、或るお宅で小学校四年生の男の子と出会いました。
お経を読み終わったところで、後ろにちょこんと座っていた男の子に気が付き早速、質問をしてみました。
「お盆に御先祖様のご供養をすることは知っている?」
知っていると返事をくれたので、
「御先祖様ってどんな人達?自分が知っている御先祖様は何人くらいかな?」と重ねて尋ねてみました。
なごみを読んでおられる皆さまは、どうお答えになりますか?
夏のお盆、春秋のお彼岸のお寺のご供養に「御先祖供養をお願いします」と沢山の檀家様がお越しになりますが、それぞれ、どれ程の御先祖様を頭に思い浮かべておられるのでしょうか。
「自分の先祖と言って思い浮かべるのは親、兄弟、祖父母、曾父母と、その人たちの兄弟姉妹くらいがせいぜいなんだよ。最近では、祖父母だって会ったことがない存在になりつつある」と、
ある方が嘆かれるのを聞き、すこし寂しくなりましたが、考えてみると自分自身もそんなに沢山の御先祖様の顔を思い浮かべられるわけではありません。
むしろ、思い浮かばない、思い浮かべられない人の方が多いのです。
でも、その知らない人達の存在がなければ今の自分の存在はないということに思い至ったとき、自分のいのちの重さをつくづくと考えさせられます。
さて、冒頭の御先祖様の数の質問ですが、十代前まで逆算していくと1,024組の御先祖様の命を経て、今の自分の命に至っていることになります。
その途中、どこかで命の繋がりが切れていたら、今の私の命は存在しません。
しかも、それぞれの親から、子どもは、思いや願いを託されながら、命のバトンタッチを受けてきました。
沢山の見知らぬ御先祖様のご縁と思いの中で引き継がれてきた自分の命。
その重さを思えば、総て自分が、自分の力だけで命をコントロール出来ていると思うのは大きな間違いであるということに気が付くでしょう。
私たちは縁に依って繋がり、縁によって育まれて来ました。
お盆、お彼岸の御先祖供養は、そうした目に見えない摩訶不思議な縁の流れに感謝しながら、今の自分を考えてみる良い機会なのです。
御先祖様、佛様に手を合わせ、報告をしながら、今の自分の生き方はどうなのかと己自身に問い直してみる。
先祖供養の意味は、そこに繋がっていくのだと私は思っています。
受け取る立場、受け渡していく立場。
亡き人々、今、生きている人を含め総ての生き物の命の繋がり中に私たちは立っているという自覚を持つことが大事なのだと思います。
合掌
神應院住職 西村英昭