毎日、様々な事件が報道されます。
情報網が発達し、今や瞬時に世界各国のニュースを居ながらにして知るようになりました。
果たして、それは幸せなのか、否か。時折、疑問に思うことがあります。
残酷な事件、考えられない人の行動、いったい世の中はどうなっていくのかと人間の「いのち」に対する認識が酷く歪(いびつ)になっているのを感じます。
古来、日本では「いのちは頂くもの」「いのちは授かりもの」という感覚が自然にありました。しかし今は「出来た」「作る」というなんとも味気ない表現が何の疑問もなく遣われ、いのちを授ったという真摯な気持ちが、そこには微塵も感じられないように思うのは私だけでしょうか。
「授かる」「授かった」という表現は、いのちに対する畏敬の念が含まれています。
佛や神という人間を超えた存在から「いのち」を託され、いのちを授かった者は、託された「いのち」を喜びと共に真剣に受け止め、預かっていく覚悟を決めなければなりません。今や、その真剣さが乏しくなって来ているように思えます。
お互いの「いのち」と「いのち」が縁という糸で繋がっている、その重みをしっかりと受け止め、考えなければならないと思うのです。
「預かりもの」という表現が昔はありました。
「この子は、佛さまからの預かりものだから」と言って子供を育てる。
自分たちの意思で「作った」「出来た」のではなく、縁が繋がって、いま、ここに、お互いが巡り会っている「いのち」であることを肝に銘じる必要があるのです。
お釈迦さまは「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言われました。
この世の中で唯一無二の存在である自分のいのちほど大事なものはない、という意味です。
代替えのきかない「いのち」
その「いのち」は縁の糸で無数の人々と繋がっています。
家族や、我が子だけではなく、見知らぬ人であっても、国や人種が違っていようとも、それぞれが唯一無二の「いのち」を授かり、この地球上に存在しています。
そのお互いの「いのち」に真摯に、真剣に向き合うことこそが、平和な社会を作り、人を幸せに導いていく根本なのではないでしょうか。
今、世界で起きている紛争、自然災害、多数の事件。
そうしたことを見つめながら、今こそ「いのち」に真剣に向き合い、考えるときだと思います。
合掌
神応院住職 西村 英昭